彼の名前はのりあき。そして、彼の仕事はカメラマン。
のりあきはごく普通の就職をし、ごく普通のカメラマンになりました。
でも、ただ一つ違っていたのは……
のりあきはカメラワークが下手だったのです!
京都市立堀川高校の進学クラスを卒業した僕は、目的を見失っていた。
大学で何をすればいいのかわからないから、と理由をつけて受験勉強から逃げた。
2年間フリーターをしてから入った学校は京都科学技術専門学校の映像音響学科。
時は1994年。SFと特撮が大好きなオタクだった僕は、映画監督になることを夢見て専門学校の門をくぐった。
専門学校で自主映画を何本も撮り、学園祭の校内ゲーブルテレビでOAした。
教授に連れられてライブとPVの撮影を手伝わせてもらった。
その歌手の名前はaikoと言った。
好き勝手に映像と遊び、仲間もたくさんいた楽しい2年間を過ごし、卒業したのは1996年。
邦画の低迷期だった。
日本の劇場はハリウッドに席巻され、日本映画の本数は極少。
映画関係の求人は皆無。だからといってハリウッドに行く根性はない。
映像が撮れればそれでいい、とテレビプロダクションの求人に応募した。
運良く一社に拾ってもらえて、カメラアシスタントとして働き始めた。
誤算だったのはそのプロダクションの仕事が報道、スポーツの取材や、バラエティのロケが中心だったこと。
映画の仕事とは程遠かった。
僕は『報道・スポーツグループ』に配属され、ある民放局に駐在して、報道取材があれば飛び出す仕事についた。
2年間カメラアシスタントとして、三脚を担ぎバッテリーを背負ってカメラマンの後を追ったり、報道現場で周り番のカメラマンの一人として和歌山カレー事件の現場を張ったりした。
3年目、晴れてピンのカメラマンとしてデビューした。
時は1999年。
阪神タイガースが野村克也監督を迎えた年である。
当時の野村フィーバーは凄かった。安芸で行われた最初のキャンプから報道陣が詰めかけた。
僕はいきなり、百戦錬磨のカメラマンの群れに放り込まれ、もみくちゃになりながら必死で野村監督を追いかけた。
ピンでやってみて初めてわかった。私は動くものを撮るのが下手くそだった。
選手の練習風景に躍動感がない。ボ肝心の選手が写ってない。ールがフレームアウトしてる。
センスがないとしか言いようがない。
ディレクターから散々の評価。
キャンプ密着の途中、インサートと呼ばれる情景映像を撮りに高知の海に行った。
そのときディレクターに初めて褒められた。
「波を撮るのは上手いな」
でもその後に付け加えられた。
「野球も上手く撮ってくれ」
情けなかった。
そういえば和歌山カレー事件の現場でも「彼岸花の風景が綺麗やな」と言ってもらった。
でもその後に「ニュースに季節感はいらんから」と付け加えられた。
ニーズに応えられない自分がひたすらに悔しかった。
あまりに下手くそな映像を連発する自分に見切りをつけたんだろう。
上司から配置転換を命じられた。
僕はカメラマンからビデオエンジニアになった。
ビデオエンジニアは、簡単に言うと複数のカメラを使う現場で、そのカメラを切り替えるシステムを組み立て、各カメラの明るさや色合いを調整する仕事。
もみくちゃなだけど華々しい現場にいるカメラマンと違い、スタジオのサブコントロールルームや、中継車の中で座ってダイヤルを回す地味な仕事。
僕はその仕事を3年やり、そしてテレビプロダクションを辞めた。
きっかけは子育てをしたかったとか言ってるけど、正直、苦手な仕事から逃げたという面もある。
子育てをしたかったことも本当、仕事から逃げたかったことも本当。
カメラよりも子育ての方がちょっとだけ得意だったのは幸いだった。
和田 憲明
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