1988年の夏、大きなお腹をかかえた妊婦さんが僕の横に立った。妊婦さんは額に汗を浮かべてしんどそうだった。
僕はそのとき高校受験の模試に向かうためバスに乗っていた。座っていたのは一番前の右側の席。バスの席は全部埋まっていた。
妊婦さんが僕の横に立った時、「誰か席を譲ってあげて」心の中で思った。でも誰も席をゆずらなかった。僕は席を譲りたかったけど譲れなかった。
きっかけがないと動けなかったのだ。
11年後の1999年冬、大きな男が僕の横に立った。大男は無表情だった。
僕はそのとき電車の扉近くのつり革につかまって文庫本を読んでいた。僕の斜め前にはおじいさんが座っていた。
年末、僕は阪急電車で大阪から実家の京都に帰るところだった。他の席は埋まっていて、僕ともうひとりスーツ姿の男性がつり革につかまって立っていた。
そこに新たに乗ってきた大男は、おじいさんの前に立ち何やらブツブツ言い始めた。
「なんか文句あるんか」「何見上げとんねん」
よく聞くと小声でおじいさんに絡んでいるのだ。おじいさんは「いや」「そんなことは」と困惑していた。
周りに座っている人たちがすこし緊迫するのを感じた。
僕は動けなかった。大男とおじいさんにあまりにも近くて、身動きがとれなかった。横の様子をビンビン感じながらも、文庫本から目をあげることもできなかった。
「これ見てみ」
と、大男が何かを取り出した。僕はようやくチラと文庫本から目を横に向けた。
男が懐手に持っていたのは折りたたみナイフ。僕はドキっとして、ますます動けなくなった。
男はナイフを懐のなかでプラプラと振っていた。僕とおじいさんともう一人、スーツ姿の男性以外からはナイフは見えていない。
他の乗客もなんとなく緊迫するのを感じた。スーツの男性がじわじわと扉に向けて動いているのもわかった。
幸いにしてその電車は各駅停車だった。凍りついた時間は数分で終わり電車は駅に着いた。
駅に着いたとき乗客は誰も動かなかった。
扉が開いた瞬間、扉近くに移動していたスーツの男性が電車を飛び降りた。彼はナイフの存在を知っている。
飛び降りたその先に駅員さんが立っているのが僕の場所から見えた。
「助けを呼んでくれる」
僕は期待した。
でもスーツの男性は、駅員さんの前を素通りして一目散に階段を駆け下りて行った。
「逃げやがった」と思った。
その次の瞬間、ぼくはおじいさんの腕を掴んでひっぱり、一緒に電車から降りていた。どうやら「逃げやがった」のショックで身体が動くようになったらしい。
大男はついてこなかった。
飛び降りだ先に立っていた初老の駅員さんに僕は小声で訴えた。
「ナイフを持っている男がいます」
駅員さんは勇敢だった。「誰ですか?」と確認するとすぐに無線で何かを連絡した。そして電車に乗り込み大男の前に立った。
駅員さんが話しかけた時、大男はもうナイフをしまっていた。
別の駅員さんが僕とおじいさんに言った。
「次の駅に警察をよんであるので、隣の車両に乗ってください」
次の駅で待っていた警察官に大男は連行された。勇敢な駅員さんは無事だった。
あとで話を聞くと、大男は駅員さんにもナイフを見せたらしい。
駅員さんは「胸ポケットに手帳が入ってるので、刺されるならそこがええなぁと思ってました」と言った。
仕事とはいえあっぱれな駅員さんだった。
事情徴収をした警察官は言った。
「さびしかったのかもしれません」
年末にはこういう事件が多い。世間が浮かれる年末にイラつく男性が一定数いるそうだ。
おじいさんはコンピューター関係の仕事先に向かっているところだったらしい。
「びっくりしましたけど、おかげで2000年問題の厄を落とせたかもしれません」
2000年問題とは、世紀をまたぐ時に誤作動を起こすコンピューターが大量発生すること。
実際には心配されていたほどの問題は起こらなかった理由のひとつに、おじいさんの災難が幸いしたと信じている。
ものすごく怖い体験だったけど、僕は三人の立派な大人に出会うことができた。
「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」
フィリップ・マーロウの言葉を体現するような大人の男たちに。
そのときの僕は大人の男ではなかった。
「逃げやがった」「助けてくれなかった」
という怨嗟の念をトリガーに反射で動くだけの若者だった。
たまたまおじいさんのいちばん近くにいて、たまたまトリガーを引かれただけだった。
そのときの僕が動くにはきっかけが必要だった。だけど、きっかけがなくても動ける人に僕はなりたいと思った。
おじいさん、駅員さん、警察官のような自分の役割を果たす大人に。
高校模試の年から30年、ナイフ男から19年。40代の僕はきっかけがなくても動けるようになった。
少なくとも妊婦さんに席をゆずる程度のことなら。
和田 憲明
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