助手席で号泣する彼女の隣で、僕はこみ上げる怒りを一生懸命こらえていた。
11年前の秋のこと、彼女にとって大切な人が入院することになった。
薄曇りの夕方、僕は彼女と大切な人を車に乗せて病院に向かった。
屋外の駐車場に車を停めると、彼女と大切な人は手を繋いで2人で先に受付に向かった。
僕は大きめのバッグを持って2人の後を追った。
ナースステーションで部屋の場所を聞き、入院の荷物を運び入れ、病室で看護師の説明を聞く。
荷物をかたづけたあと、談話室の自動販売機で3人分の紙パックを購入した。
その時間の談話室には僕たちだけしかいなくって、とても静かだった。
そのときどんな会話をしたかは覚えていない。けれど、対照的な2人の表情は覚えている。
大切な人は微笑んでいた。
彼女は無表情だった。
僕は彼女の無表情に気づいてはいたけれど、深刻には考えていなかった。
彼女の悲しみはその時から溢れそうだったのに、大切な人の前だから一生懸命に堪えていたのかもしれない。
大切な人と別れて、病院の外に出ると土砂降りになっていた。
彼女と僕は相合傘で車に向かった。2人とも無言だった。
彼女がシートに座ると、僕はシートベルトを締めてあげた。
僕は運転席に乗り、自分でシートベルト締めた。そしてエンジンをかけて発車させた。
彼女が大切な人の名を叫んだのは一つ目の赤信号だった。
名を3回叫んだ後、彼女の目から涙が吹き出した。
車内に響く彼女の泣き声。
僕は反応できなかった。
彼女の悲しみに感応し、僕も悲しくなった。
数十秒後、信号が青になり車をスタートさせた。アクセルを踏む勢いを借りて僕はようやく彼女に声をかけた。
「だいじょうぶ、絶対に帰ってきてくれるから」
でも、そんな普通の言葉では彼女の悲しみは止まらない。
涙を流して嗚咽しながら何度も大切な人の名を呼んでいる。
僕の言葉は耳に入らないようだ。
はじめのうちは一緒に悲しんでいた僕。
しかし、いつまでも泣き止まない彼女に、だんだんと僕の心に怒りが生まれ膨らみ始めた。
彼女と暮らし始めてからの4年間、僕はずっと彼女に尽くして来た。
何処へでも送迎した。体調が悪いと聞くと飛んで帰った。
好きなスイーツを買った。ねだられたアクセサリーも買った。
彼女が寂しければそばにいて、なぐさめを欲っすれば抱きしめて背中をさすった。
彼女は大勢の人の中で不安になると、僕にぴったりくっついて離れなかった。
僕が隣にいないと寝られなかった時期もある。
彼女のために自分の時間を奪われて、発狂しそうになった。
いくら僕が彼女を愛していたって、しんどくなるときもあるのだ。
それを乗り越えて、僕は4年間ずっと一生懸命彼女に尽くし続けてきた。
何度目の「だいじょぶ」の後だったろう。
僕はとうとう彼女に「ええかげんにせえ!」と怒鳴ってしまった。
彼女の鳴き声が一瞬で止まった。
でも数秒後、さらに大きな声で泣きじゃくり始めた。
彼女の号泣は素直な感情で、僕の怒りは理不尽であることはわかっていた。
それでも僕の怒りはおさまらず、それからは泣きじゃくる彼女を無視して、ひたすら無言で運転した。
家に着いたのは20分後。彼女は泣き疲れて眠っていた。
僕は彼女を抱きかかえるようにしてベッドに運んだ。
彼女の寝顔の横で、僕は少し落ち着いて自分の感情を振り返った。考えた。
そして気づいた。
なんということでしょう。僕の怒りの正体は彼女の大切な人への嫉妬だったのです。
彼女の号泣を僕は、僕よりもあの人のほうが好きだからだと解釈した。
僕が隣にいて、彼女を一生懸命なぐさめているのに、彼女はひたらすら大切な人の名を呼ぶ。
その理不尽、そしてそんなにも彼女に思われている大切な人への嫉妬から生まれた怒りだったのだ。
彼女は僕と大切な人とを天秤にかけていたわけではない。ただただ大切な人との別れが寂しかっただけ。
そこに気づいたとき、自分の小ささと未熟さに心から後悔した。
翌朝、再び2人で大切な人に会いに病院に向かった。
彼女はもう泣いていなかった。大切な人が看護師に囲まれて手術室に向かう瞬間は不安そうな表情をしたけれど、基本的には穏やかだった。
大切な人と似た微笑みを浮かべている時間が多かった。
大切な人の手術が終わるのを待つ間、病院の食堂で彼女が大好きなざるそばを2人で食べた。
ざるそばの味は覚えていない。けれど、いつの間にか彼女の表情が変わっていたのは覚えている。
彼女はわくわくした表情になっていた。
2時間後、手術を終えた大切な人と対面した。
大切な人の微笑みの隣にはもう一人の大切な人が寝ていた。
大切なママの微笑みに安心し、誕生したばかりの次女を見た長女の言葉は、
「ちっちゃい……」
長女4歳。和田家が4人家族になった11年前の秋のことでした。

和田 憲明

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